山根 久生さんの戦争   −   タイピン刑務所の思ひ出

 開業以来10数年のおつき合いになる山根久生さんは、大正九年、筑紫郡曰佐村大字五十川(現在の福岡市南区五十川−ごじゅっかわ)に、九人兄弟の九番目の末弟として生れられた。相撲取りの兄を持つという母親の血を引いた胸板の厚い偉丈夫(だがすでに頭はかなり薄い)、御年八十二歳である(「遠き日の君の姿のなつかしく 生きて今いる我は昼寝す」の自作歌を、自分のことを歌とうてくれましたか、と嬉しく読んでくれた)。
 大東亜戦争と呼ばれた大戦では、招集後の旧満州の地でその真面目さと体力知力を買われ、陸軍下士官補として教導役となられ、その後マレー半島まで憲兵隊付きで転戦された。終戦時は憲兵隊に所属していたこともあり、BC級戦犯の容疑で1年半あまり英国軍の所轄するタイピン刑務所で取り調べを受けたという。
 A級戦犯は政策責任者や軍指揮官が標的にされたのに対し、B級C級は現場の将校や下士官が、捕虜虐待や敵地市民に対する殺傷や残虐行為に関する戦争犯罪容疑者として、半ば報復的な裁判にかけられ、多くの将兵が絞首刑や銃殺刑に処されたという。
 痛みに苦しむ豪州兵の苦痛を和らげようとして、親切心で「お灸」をすえた兵が、皮膚を焼いて拷問をしたという戦犯容疑でBC級戦犯裁判にかけられた例や、英軍捕虜にごちそうとしてみそ汁をふるまったことが、腐ったスープを無理矢理に飲ませて虐待したとの咎で戦犯裁判にかけられた例など(もちろん本物の悪さをした者や、「戦争行為」で殺戮に加わった者も戦犯とされた)、書物では知っていたことの生き証人が山根さんである(人情家で親分肌の山根さんが、やくざ出身の下級兵の狼藉を鎮めてなだめたことなどは、きっとそのとおりだと思う)。
 年輩の患者さんから昔のことを聞き出すのを楽しみとしている私としては、シベリア帰りのIさんOさんと同じく、山根さんはだんだん少なくなっていく長老のお一人である。ご本人も、長生きして昔語りができる友や縁者が少なくなったことを嘆かれるが、自身の葬式に列席する縁者や友が少ないことは良いことですよ、と言うしかない。
 昔語りをされるうちに、「こんなもんがありますばい」といって持参されたのが図の刺繍の写真を掲載した『BC級戦犯英軍裁判資料(上)』という本である。この本にある写真の刺繍の現物は、この写真を撮影した後にどさくさにまぎれて紛失してしまったという。
 この木綿の腹巻きに刺繍された物語は、衣服や靴下やぞうきんなどの織物から抜きとった色とりどり(というほど鮮やかではなかったらしいが、とにかく色つき)の糸で綾取られていたという。復員帰国する時の手荷物検査で没収されるかも知れないという東北出身の大学卒の同僚の助言を受けて、双六(バックギャモンという言葉も、ローマ数字も刑務所生活で教わった)に仕立てあげて無事に持ち帰ることができたという。

 こんな立派な「作品」はないと思い、ご本人の了解を得てこのギャラリーに展示させていただきました。

      概略図との対照    解  説    部分詳細図    部分拡大図    戻 る
 

 以下は同書の解説です。   このページのトップへ

タイピン刑務所内生活図(獄中製作・刺繍双六)
 
 ここに持ち帰られた三十二枚の獄中生活図は、旧陸軍支給の腹巻きの裏の木綿地(表はネル)に、一本の針で服やぼろぎれ、或いは又ぞうきんから抜きとった糸で刺繍したものである。これを製作し且つ持ち帰った山根久生氏は、「昭和二〇年終戦の時我々馬来憲兵隊が戦犯容疑者としてタイピン刑務所に入れられた時、家族に何かをと思い、所内での作業又は刑罰等目に映った事を刺繍した。検査で没収されないよう双六(Backgammon)に仕立てた」と言っている。在所はおよそ一年半に及んだが、幸い起訴は免れた。山根氏は(現福岡市)は、大正九年生まれ、終戦時は在タイピンのマレー憲兵隊司令部付陸軍曹長(補助憲兵)。
 刺繍の大きさはおよそ一〇〇×三〇センチ。

   茶園義男 編 『BC級戦犯英軍裁判資料(上)』
   不二出版株式会社 1988年8月15日刊
   から

双六の解説: 部分詳細図
1.ふり出し − 起床のドン朝6時30分
2.罰刑の石割及びヤシたたき
3.サップー(掃除)荷車引き
4.チャンクイ(農作業)
5.ロタン(籐)によるトウイス作り
6.縄作り
7.貸本屋
8.犯人捜査の顔写真取り
9.マレー人のポリス(ジャガー)
10.肥(こえ)汲み運搬
11.喫煙を見つけられナンバー記入
12.監視の望楼と肥捨て場
13.憩いの場とトイレと喫煙
14.散髪屋
15.草刈り作業
16.食事のドラ
17.看視付きのマンデー(水浴)
18.塀の塗りかえ(逃亡未遂)
19.我が部屋シャバが恋しい腹がへった
20.トッテン鍛治屋
21.靴屋とジュータン作り
22.ラジオ修理と大工作業
23.病院診察
24.印刷
25.ハタ織り作業
26.オランプテー(白人)の身体検査
27.食料運搬
28.掃除
29.罰刑の独房入り(パン四半斤と塩と水)
30.ロビー(洗濯場)−(絞首ロープも洗濯)
31.クリーニングのアイロン掛け
32.楽しみな献立発表
33.恐ろしい呼び出し(奥川通訳)
34.取り調べ(松本通訳)
35.何人もの血を吸った恨みの絞首ロープ
上り 毎日夢見る復員船